不幸でないと歌は書けないか

かなり前のことになるが、ある歌会へ参加したときに、「不幸なほうが歌が書けるよね」、「あえて(安易より)難しい道を選ぶようにしている」などの話がでたことがある。

このような話は、今までも何回か聞いたことがある。自分自身もちょっとそう思ってる。
私自身も父の死に向き合って、歌がどんどんあふれた経験がある。
失恋してもう歌が書けないという人に、「そういうときこそ歌が書けるんじゃないの?」と思ったりもした。

自分の実体験をベースにした創作をするとき、ドラマチックな人生であれば、ドラマチックな歌ができる可能性は高いと思う。
それを創作に利用するかは、個人の考え方だが、時として「こんなことまで書いちゃうのか!」という驚きが、歌に力を与え、読み手にインパクトを与えることは事実だと思う。

自分が苦しみの中にいるときほど、心の叫びは強くなる。
内側から外へ表出したいという圧力が高まる気がする。
それを持って「不幸な方が歌が書ける」ということにつながるのだと思う。

では、平穏な人はどのように歌の種を見つけたらいいのだろう?

それは日常の中でのセンサーを高めることだと思ってる。

なぜそう思うかというと、誰しも経験している日常からはっとする言葉が生まれるのを、日々見ているからだ。
それは、ドラマチックな人生から詠むのより、もっと高度な感性かもしれない。

実際、毎日のニュースだけでも心が揺れ動く。
理不尽な話に、ぎりぎり歯を食いしばる。
だけど。
それはほんとの言葉か。自分の言葉か。自分の責任で発せられるのか。

書きつけてから考える。いろんな角度から考察する。
新たな視点も見つかる。